サマソニは2000年2か所同時開催スタイルで山梨と大阪において2日間の日程が組まれました

ロゴス(LOGOS)

サマソニ!2000年に初開催、都市型大型フェスティバルの雛形として誕生

2000-08-05

ステージ1(東京)/Stage1(Tokyo)

ステージ2(東京)/Stage2(Tokyo)

ステージ1(大阪)/Stage1(Osaka)

ステージ2(大阪)/Stage2(Osaka)

2000-08-06

ステージ1(東京)/Stage1(Tokyo)

ステージ2(東京)/Stage2(Tokyo)

ステージ1(大阪)/Stage1(Osaka)

ステージ2(大阪)/Stage2(Osaka)

サマーソニック爆誕

サマーソニックの前年、マリリンマンソンが初回と同じ会場、山梨は富士急の大型イベントスペース、コニファーフォレストで開催されました。
今思えばこれが予行演習だったのではないかと推測されます。
この会場はフジロック初開催の前年にアンダーワールドを招聘してオールナイトイベントのレインボー2000を開催しています。
これがフジロックのみならずサマソニの開催に影響と教訓を与えたのは間違いないかと。
フジロックとの差別化を図るための都市型=東京圏から日帰り可能圏内であること。
数万人を集めても耐えられる会場、交通機関を兼ね備えていること。
この条件にあてはまる場所として当初は関東はこの富士急が、そして大阪は南港がピックアップされました。
関東圏は翌年幕張に移動し、以後幕張がサマソニの聖地となりました。
レギュレーションは早めに固めることが大型イベントのイメージを固めるには重要な要件となりますが、サマソニ運営がこれに成功させたことがその後の隆盛に繋がったものと思います。
しかしながら数年後に数十万も集めるような世界的な動員をするフェスが日本のものになるとは夢にも思いませんでしたがw

2000年当時の音楽事情

日本国内においてCDの売り上げは1998年をピークに徐々に減っていた時期ではありますが、まだまだ存在感を誇っていた時代。
不必要に崇め奉る洋楽信仰みたいなものも未だ根強く残っていた時代でした。
日本国の市場も世界にとってまだまだ大きなパイとして魅力的であり、日本をツアーで周ることが海外アーティストにとってもメリットのある時代でした。
ゆえに精力的にアジアでは最優先で日本での売り込みをされていたと記憶します。
またインターネットの発展で各国のインディーバンドの情報も容易に手に入るようになり、ローカルで人気が出ている人達の音源が瞬時に(無料でw)手に入る夢のような状況もあり、来日までのスパンが非常に短くなってきたこともこうした見本市のようなロックフェスが立ち上がる重要なファクターになるのでした。
それは従来の流れ、海の向こうで人気が出て、日本のプロモート先が決まり雑誌等で紹介され音源が配給され、颯爽と来日するといった流れのいくつかの手続きを省略することとなったのです。
よりダイレクトにいきのいい海外のバンド達が極東アジアの日本に届くようになって更に加熱していくことにサマソニが大いに貢献したことは言うまでもありません。
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