1998年は一転都市型フェスに舵を切り、豊洲ベイサイドスクエアに会場を移して二日間の日程で開催されました

ロゴス(LOGOS)

フジロックは都心の豊洲で夢の続きをリスタートさせた

1998-08-01

グリーンステージ/GreenStage

ホワイトステージ/WhiteStage

1998-08-02

グリーンステージ/GreenStage

ホワイトステージ/WhiteStage

緊急避難的な側面?

運営の人も仰っていましたがここで開催して成功するのはそりゃ当たり前だと。でもそれじゃつまらないみたいな内容でしたが…いやもうここで永続して開催でいいじゃんという反対意見が多数だったように記憶します。
実際その場にいましたが、夏の暑さは結局日本全国どこに行っても同じだし!山奥でひぃひぃ言いながら移動してまた雨に降られたら目も当てられない、前年の異常事態があまりにも記憶に刻み込まれている時期なのでそういった保守的な思考になってしまうのは仕方ない部分もありました。
とはいえその後の過程を考えたら、フェス文化が根付くことによって動員も倍々に増えていくような状況ではあの豊洲の埋立地ではおそらくキャパ的に対応は出来なかったように思います。
幕張みたいなでっかい駐車場もなかったのでほぼ全員が電車での参加となるし、その後の豊洲には開発が進み大型のマンションがガンガン立っていたので騒音問題で揉めていたであろうことは容易に想像がつきます。
あの場所でずっと居続けることは数年でとん挫していたことでしょう。やはり苗場の土地の利便性は高いと言わざるを得ませんね。意外と交通の便もいいので。
以上のような理由で本当に夢のような一瞬の出来事というイメージが豊洲にはあります。
あの当時のまだ様々な工場が林立していた豊洲という地の殆ど最終番だった時期を経験できたのはそれはそれで後世に語りつげる体験だったのかもしれませんね。今はありえないくらいオシャレなスポットになってしまったのでw

今の豊洲と違うんだよマジで

灰色でしたよ当時はw
あの辺は東京の湾岸を占める埋立地なので関東大震災の瓦礫を集めて廃棄した土地ということはよく知られた事実です。
住宅地というよりは重工業の工場が多く建てられていて特になにか観光できるようなものもなく、そこに勤める人だけがただ通うだけの土地という側面が強い場所でした。
もちろん地下鉄が通ってはいたのですが、わざわざそこに仕事抜きで途中下車することもない、そんな駅の佇まいだったように記憶します。
実際フジロックが行われたときも数万人が一斉に利用する事態は全く想定外ですよねといった雰囲気で駅のホームに人が溢れていたとのことです。
一応参加した身なのですが、バイクで近くまでいって路上に不法駐車して会場まで歩いていった記憶がありますね。
確か駅の出口から延々と海に向かって一本道を歩いて行ったような。そしてとても長かったような記憶が。
今にして思うとあんな何もなかった場所が今や大型ショッピングモールが出来、大型のマンションが乱立しえらく金かけて再開発したな~と驚愕します。バブル以降なのでそういった大開発は自重してましたからね東京でも。
Number55